「宮崎進展について」
勅使河原 純(美術評論家)
大変なものを見てしまった
1945年12月~1949年12月。宮崎進は東北満州・牡丹江でソ連軍にとらえられ、コムソモリスク付近のゴーリン205分所、いわゆる収容所/ラーゲリに収容された。
通常それは69~65年まえの「戦争」という歴史の事実として語られる。だが、ここで提示されているのは明らかに歴史ではない。ズダ袋で覆われたパネルにせよ、木の塊にせよ、ここにあるのは歴史でも鎮魂でもなく、いまだ正確に繰り返される現実の「光景」だ。
なまじ目撃したのが視覚の表現者であったばかりに、それらの結晶は決して風化することがない。美術を忌避し、放逐さえしている。従ってその前に立つ者は追体験ではなく、実体験を迫られる。
展覧会を担当した籾山昌夫・主任学芸員によると、当時宮崎進が一番苦しかったのはソ満国境地帯にひろがる最前線の泥土を這いまわっていたときだという。「黒い風景」(1993年)が示す果てしない泥また泥。ゴーリンへ送られたときは、かえってホッとしたという。これでひとまずは生きられると。五味川純平の「人間の条件」の、さらに上をいく体験だ。
画面にしばしば登場してくる縦横の直線は、ラーゲリの鉄格子を表しているという。そして空を飛ぶ鳥の自由、シベリアの大地を突然埋めつくす血のように赤い花。死んでいった戦友たちの顔。シベリアから命からがら帰ってきたら、懐かしい思い出の地広島は原爆で、それこそ何から何まで焼き尽くされていた。虐殺と戦慄のドンデン返し。
どれもがリアルであるが故に、救いようもなく分断されている。そしてそのすべての裂け目から、死と生が噴き出してくる。藤田嗣治の兵士の山とはまったく異なった、美術ばかりか人間さえも立ち入ることのできないこうした営みを、一体われわれはどうすればいいのだろう。
(『立ちのぼる生命 宮崎進展』 神奈川県立近代美術館
葉山、~2014年6月29日)
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