サイトユフジは1949年山形市生まれ。武蔵野美術大学産業デザイン科卒業後渡欧。オーストリア、ウィーンで古典絵画の油彩、テンペラ混合技法などを学び、ドイツ、オーストリア、ポーランドなどヨーロッパ各地で作品を発表。約15年の滞在を経て1988年に帰国。1989年にはユマニテで個展を開催しました。その後、山形市を拠点に国内外の展覧会で発表を続けています。
今回の展示はA.デューラーの木版画『RHINOCERUS』のモデルとなったインドサイGANDAをモチーフにガッシュで描かれた作品、その他テンペラ板絵など約20点を発表します。ユマニテでの発表は1989年の個展以来となり、東京での新作展も15年ぶりとなります。この機会をお見逃しなく是非ご高覧下さい。
〈作家コメント〉
GANDAとはA.デューラーの木版画『RHINOCERUS』のモデルとなったインドサイの名前である。15~16世紀にかけてインド北西部にあったグジャラート王国の言葉でサイの意味らしい。GANDAはデューラーのお陰で、たぶん(個体としては)世界で一番有名なインドサイになった。でも僕は、その数奇な運命を知るにつけ彼女(どうも雌らしい)に同情した。
贈り物としてインドからヨーロッパに送られたが、長期間船倉に閉じ込められたために酷い皮膚病にかかった。ポルトガルで見世物にされたとき、ドイツ商人某が病変をそのままスケッチした。そのスケッチがニュルンベルグに送られ、それを見たデューラーが発想を得て原画を描き木版画にして売り出した。皮膚病のことなど知らない画家は、体表に鱗や様式化した模様を配し、肩に二番目の角までつけてしまった。
その後『RHINOCERUS』は傑作ゆえに様々に模倣、模写されて世界中に流布し、また新たな模倣、模写を生んだ。肩に描かれた“誤りの”二番目の角などが指標となり、版画図像のメディアとしての役割を示す好例としても、しばしば取りあげられる。『RHINOCERUS』にはドイツ文字によるテキストが添えられているが、その(現代から見れば)荒唐無稽の内容についても、幾多の研究論述がなされている。一方GANDAは、また贈り物としてバチカンに送られることになる。ところが途中で船が難破して沈没してしまう。死体は引き上げられて剥製にされ、送りなおされた(それをラファエロが描いている)。
デューラーの犀は、いまだ(僕を含めて)多くの人々の想像力を刺激し新たな創作や表現を生み出している。ネット検索すれば膨大な数の『RHINOCERUS』が現れる。が、当のGANDAにとっては「知ったことじゃない」だろうな。宙吊りになったサイのイメージが浮かんだ。いまだ宙空に漂うサイのイメージが生まれた。ピュアな造形作業にも論理的な意味の構築にも没頭しきれない僕は、未整理のまま混濁する思考の中で生まれたイメージを拾い上げ作品化する。今という時代の空気をそっと呼吸しながら。
>> サイトユフジ 略歴
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